学習性無力感

よいよい。

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僕の会社のある駅は列車の一番先頭車両方面に出口がある。でも、列車に乗るときの入り口は最後尾にある。

いつも遅刻しがちな僕は、いち早く会社につくため、列車が来るまでの間、なんとか先頭車両に近付けるようにずんずんと進む。

でも、だいたい途中で列車が来て、軽い挫折を味わいながら乗り込む。静かに数駅という絶望の時間を過ごしながら移動し、会社のある駅で残りの距離を歩く。列車の中をずいずいと進むという手もあるが、満員電車の中では身動きもとれず、そううまくいかないのだ。

そんな感じで列車の中でじっと気持ちをうずくまらせて日常を過ごしていたら気付いた。

途中の駅で停車中に降りて、より先頭車両方面に歩き、扉が閉まる時点で再度列車に飛び乗ればいいのだ。

試してみる。乗った時点では最後尾だったけど、6駅くらいかけて先頭車両までたどりついた。

自分は日々成長しているな。そう思う瞬間だ。だけどなんでしょうか。この根無し草のような心もとなさは。

場所を変えるたび、中華定食屋で相席になってしまって先にいた人に軽くおじぎをするような、そんな気まずさを感じる。

相席した人に先に酢豚定食が出てくる。向かいの席だから目のやり場がなくてなんとなく酢豚の内容を見たりする。この酢豚はタマネギが固そうだな、頼まなくてよかったなとか思う。目が合う。あわてて目をそらして店内に目をやる。よそよそしくメニューの張り紙が目に入るだけだ。よけいうずくまる気持ち。

座席のはじと扉の間の三角コーナーにたたずんでる人をみて、そんなのを追体験しているような気がして、ワク線のないマンガの1コマにいるような気持ちになるでがんす。

そういうわけで、結局じーっと同じ車両でたたずんでなんとか居場所を確保しようとあがくのです。

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関係ないけど、先日プチ日記の1月15日の日記でやっていた「ティッシュ入りハンバーグ」を見て思い出した。

以前読んだとある本に書いてあったのだけど、ベトナムの屋台のフォー屋(SHOW-YAみたい)では実際にティッシュを入れて、かさを水増しをしているとのこと。

水増しっていうんだから、水ふやせばいいのに。って思った。実際ティッシュに「鼻セレブ」を使ったりすると、どういう方向性なのか理解に苦しむことこの上ない。「舌ビラメの味噌煮」とかそんな感じ。

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27歳になってもまだ舌ビラメのムニエルを食べたことがない。


路上の恥はかきつくした。

最近さあ、妙にホリケンサイズの歌を思い出すんですよ。初代のほう。

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昨日のタイトルは3周半くらい回ったところを狙ったんだけども、今見ると赤面ですな。こっそり変えるのも消すのも恥ずかしいし、死ぬしかないのか。

恥ずかしいついでにちょうど4年前の自分の手帳が出てきたので公開をしてみることにする。初めて手帳というものを買って、浮かれて「ネタ帳」を作っていたときのものだ。

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何より、2002年1月16日のヤマヨシへの絶望が特記すべきことだろうと思う。何も覚えていないが、ワサビーフがまずかったのだろうか。

うまく言葉にはできないが、何か勇気をもらったような気がする。俺はヤマヨシに絶望したことがある。これからは、そう自信を持って生きていこうと思う。


あいまいな定義にドロップキック

友人と話していたら、ナッツの話題になった。

「カシューナッツってうまいよね。ナッツの王様だと思うよ。」

「つまみだけじゃなくて、料理にもなるしね。マカダミアナッツとかはもっと頑張れよって言いたい」

「いやー、でも俺は炒った大豆が好きだな。」

「それナッツじゃなくね?」

「え?」

「豆。ビーンズだろ」

「あ、そうか。ていうか、ナッツって何?」

「木の実だろ」

「木の実かー。あ、じゃあ栗もナッツか」

「そうだなー。木の実だもんな。あれ。」

「そういえば松の実もナッツだよね」

「だな、ん、待てよ。そしたらさくらんぼもナッツか?」

「木の実だもんな。ナッツだと思うよ。」

「じゃあ、りんごもナッツか。」

「ん!ていうか、そしたらナッツの王様はリンゴじゃね?」

「他のナッツはジュースにならないもんな。」


というわけで、今日からナッツの王様はりんごということになりました。対抗馬はみかん。


岡部まりとは違う流れ。

ちょっとだけ時期は過ぎてしまった感はあるが、相武紗季は「本格派美少女」っぽく、CMでも大事に使われて売り出されていた(OCNはどうかと思ったけど)。しかし、ヤングジャンプ、プレイボーイなどのグラビアで見かける姿は、痩せた、あまり魅力的ともいえない体型に非常に小さめの水着を着た、露出度の高いものである。

なんとなく既視感があるなあ、と思ったら分かった。本上まなみである。本条まなみも、同様の立場で小さな水着で惜しげもなく痩せた体を見せていた。なんだこの共通の流れ。

いずれはあれか。本上まなみのようにエッセイとか書き始めるのか。でも本上まなみが「ほんじょの眼鏡日和」のように自分の名前をひらがなで書き始めると、「あいぶの眼鏡日和」とかになってしまうので、いろいろ違うお兄さんたちを連れてきそうな気がする。

だからどうということもございませんが。

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先日、奈良観光をした折、「三月堂」というところに行ってきた。

暗くて狭い室内に巨大な仏像が16体、ところせましと詰め込まれている。左右にはひときわ大きな梵天・帝釈天像がぬっとした風貌で覗く。中央には荘厳な装いの不空羂索観音が静かにたたずんでいる。その密度と静寂のアンバランスにしばし呆然。何も考えずにえいやえいやと放り込んで、後から無理やり整合性をとらせようとしたような下世話な雑多さと豊かな無表情の像の存在感。

大仏という「途方もない冗談」を見た後ということもあって、ものすごく愉快になっていたら、手に何かを抱えて三月堂の坊さんが大きな足取りでやってきた。

「いやー、すごいでしょう。」

「ええ。いいですねえ」

「今日はね、特別にね、いいもの見せます。」

的屋のような笑顔をみせつつ、彼は手に持ったものを胸の前に出す。ピカリと光る。懐中電灯だ。照らされた先は不空羂索観音の頭上。そこには巨大な冠。

「あれがね。世界最大級の宝冠ですわ。何万という宝石がちりばめられていてですね、ひすい、真珠、メノウに水晶・・・」

なんともリズミカルな口調で宝石の名前を言う。不思議とちょっと笑いがこみ上げてくる。と、その的屋の顔がさらにクシャリと曲がって

「これね。ルイ14世、ツタンカーメンとならんで、世界三大宝冠と呼ばれてます」

場内にいた人から感嘆の声があがる。すげえ。すごすぎて安い。「叶姉妹」とかそんな言葉と同じ安さ。

「で、あの宝冠にあるヒスイの勾玉、ほとんど同じものをレジで販売してます。」

追い討ちを受けた私は、テラテラと懐中電灯で照らされた不空羂索観音を見ながら、必死にマフラーで笑いを隠すしかなかったよ。


冬だ!

冬だ!とろみだ!とろみ物語!

本年はとろみが来るとみました。根拠はありませんが、先日京風たぬきうどんを食べたときに、あ、これは間違いないな、と思いました。京風たぬきうどんとはものすごくとろみがかかった汁にアゲとネギと生姜が乗るうどんです。

持ち上げるともったりとついてくる汁。そんなもったり感をはやし立てるショウガ。その中で虎視眈々と主役を狙うアゲ。ぐったりととろみに巻き込まれたネギ。どれも欠かせないアンサンブル。

そういうわけで、とろみにとりつかれた私は、とあるラーメン屋で持ち帰りラーメンを購入し、家でさっそくどっしりとしたとろみを付けてみました。

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すっきりしているはずのスープがもったりと。そして片栗のせいで味もぼんやりと。麺はこれまで以上に結びつきを強め、全然ほぐれません。頼もしいまずさだ。

これからはとろみが来る。間違いないです。
今晩は祝杯。もちろん、焼酎の片栗粉とき湯割りです。

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ちなみに「京風たぬき」を検索したら、みうらじゅんがとりあげていた。またみうらか。(以前、ゆるキャラが全国に知れ渡っていたとき、私は何も知らずに「これからは地方のマスコットだ!」とか息巻いていた。)あれだ。こういうときはあの逸話を思い出す。


とある田舎に神童と呼ばれた子供がいた。特に算数に関しては誰にも負けず、その子供の担任は彼は偉大な学者となるだろう、と感じていた。
しかし、中学生になる年になって、その子供は貧困にあえぐ家を助けるため、進学せずに農家の仕事を始めることとなり、そのまま勉学から離れてしまった。

ときは過ぎて20年以上。突如、担任のもとに一冊のノートを手にしてその「元」神童が現れた。「私は数学で素晴らしい発見をしたのです。」

担任がおそるおそるノートを開いて見ると、びっしりと「連立方程式」の行い方が書いてあった。



いや、とろみと比べる話でもないけども。単に私がみうら的笑いに毒されているからそうなるのだろうし、この神童のように素材を料理する手腕もないのだけども。とにかく情報を得る手段を考えなくてはならないなあ、と思う次第。googleさんもすごいけど、やっぱりねえ。

祝杯はおあずけだ。流しに捨てる片栗湯。みれんたらしくコップにこびりついて流れない。ああ、また暗くなった。


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