人間の道からそれたことはする気はないけどさ。

とある本を読んでいたら、中島らもVS野坂昭如の対談が載っていた。

この対談、内容自体がどうしようもなくておかしいのだが、それに加えて途中から両者がバイアグラを飲み、その状況を実況しながら対談を続けているのに笑った。

結局、

「勃ちませんねえ」
「ええ。さっぱり」

となって終わる。無駄というものを超えてタナトスへと走り出す風合いの、なんとも粋な趣向ではないか。ちょっとこういう対談はやってみたい。

とはいってもバイアグラを飲んだところで二番煎じだし、まずバイアグラ自体がなかなか手に入らない。仕方ないので、手に入りやすい、あるいはやりやすいシチュエーション対談の代案を考えてみたが、なかなかうまくいかない。

・浣腸対談
お互い床にうずくまって会話が続かなさそうなのでボツ。

・睡眠薬対談
対談が途中でぷっつり切れるのでボツ。

・美容室対談
髪を切ってもらいながら。あるいはヒゲを剃ってもらいながらの対談というのを考えたのだが、美容師の合いの手をうまくよけられそうにないのでボツ

・AV対談
AVって一人で見ると興奮するが、数人で見ると普通に見流してしまいそうなのでボツ。


というわけで、いい案が見つからない。誰かいい案をお持ちでしたら私にください。実行します。


私にとっての大戸屋がそうであるように

何らかの主義、あるいは漠然とした感情があって、本当は使っても問題ないのに、渋々消費行動を制限することは多い。

情報は欲しいけど路線が相入れないからあの新聞を買わない、とか、〇〇ユーザーのスノッブぶり(スノッブって言葉、今使ってる意味では誤用らしいけど)が嫌だから、便利だけどあそこのサービスは使わない、とか、ホテルを探しているけどあの女社長のやってるホテルにはさすがに泊まれない、とか。

私の知人のMさんもそういう人で、ラルフ・ローレンは親イスラエル企業だから絶対買わない、と言うのである。
あのラルフ・ローレンの洗練された極上のウルトラスタイリッシュ&ファッショナブルなデザインを堪能できないとは非常に哀れで残念である。

この例は衣服だからまだ代用がきくものの、例えばこれが水道局に対しての感情であったら大変である。

飲み水はコンビニで売っているミネラルウォーターでなんとか補えるが、まさかトイレのタンクをペリエでいっぱいにするわけにもいかないし、霧吹をウォシュレットがわりに使うわけにもいくまい。トイレに行けないその人は、うずくまって腹をおさえるのみである。

かようにして主義とか感情は生活から一定の自由を奪うわけである。まあ、主義や感情があるから人が面白いから厄介だ。

ところで以前、私がひいきしているところの野球チームである広島カープが、同じく野球チームであるヤクルトスワローズとの試合に備え、必勝祈願として、乳酸菌飲料のヤクルトを飲む、という儀式を行なったことがある。

ヤクルトを飲み干せ!という意味らしいが、私のような素人目で見れば「それはむしろ敵であるヤクルトの経営を助けているのではないか」と思う。

しかし選手は天使のような顔で「気合が入りました。ヤクルトの流れにさせず、ウチが相手を飲み込んでやります」とインタビューに答える。敵に利する行為も、本人の取りようによっては自らを高ぶらせる効用があるのか。当時はその強引さに感嘆したものだ。

だからMさんはラルフ・ローレンが嫌いなら、まずは直営店でシャツを買い、毎日着て着て、着倒せばいいと思う。服がMさんに馴染んだとき。その時こそがあなたの勝ちなのである。



「ショーベルト」っていうオムツがあってもいいと思う。

昨日の件に関してシューベルトさんからご批判をいただいた。

シューベルトさんは生まれてこのかた、「ショーベルト」と書かれたことがないとのこと。私がいかにもニョートンという雰囲気をさせていたから「ニョートンさん」と呼ばれたのではないかというご意見。

断じてそのような事実はない。もちろん私はニョー、すなわち尿はするが、トン単位の尿など出ないから、そんな雰囲気をかもし出すはずがない。

そして、ユとヨを間違えないとの事に関してだが、現にこちらを見ていただきたい。上智大学のシラバスでも「ニュートン」は「ニョートン」と間違えられている。

おそらくこの北川教授は生まれて以来、ニュートンのことを「ニョートン」と誤読してきているのだろう。リンゴの落ちるのを見ても「お、ニョートン!」と思っているに違いない。このような御仁が教授になられていることを考えても「ュ」と「ョ」を間違える人間は相当数いることが想像される。

いかがだろうか。我ながら非の打ち所のない反論だと思う。

加えて、想定される質問としてある、「お前は字が汚いからユとヨを間違えられるのだろう」というのにも証拠を示して反論を行いたい。

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この字を読んで「汚い」と思う人間などいないだろう。これでも「ュ」と「ョ」を間違える人間は多いのだ。つまりこれは私の文字のために特異的に起きる事象ではないのである。

最後に、図らずも絵もうまいということを証明してしまう結果となったことを謝罪して今回の反論のシメとしたい。


そういう人間であることを求められる

私の本名をフリガナで書くと「ュ」という字が入っている。リュウイチとかシューベルトとか、セルジュとかそんな名前だ。本日は便宜的に私の本名をニュートンであるとして話を進めていこう。

このフリガナでかく小さい「ュ」というのが曲者である。どうも「ョ」と間違えられやすいのである。いやいや間違えない、と言う方もいるかもしれないが、産まれてから数十回体験してきた私が言うのだ。信じるべきだと思う。(ところで「信じるべき」と「ジングルベル」って似てますね)

だから、病院などのカードを作成しても出来上がったものには「ニョートン」と印字されている。市役所で書類の発行を頼んでも「ニョートンさーん」と呼ばれる。

このような間違いはたくさんあるのだろう。「ジュリア・ロバーツ」は「ジョリア・ロバーツ」と、ワキゲの洋ピン女優になるし、「キュリー夫人」は「キョリー夫人」となって、とても遠い存在である。

ニョートンなんて、そんな尿漏れパッドみたいな名前じゃないです、と言おうにも、私はしっかり印字されたニョートンという文字をみると、まあ、それで生きていくか、と思ってしまう。このような著名人もそんな諦めを体験してきているのかと思うと、ちょっとうれしくなってくる。


痛み

これはヤムチャのぶん!

そしてこれは、クリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!


一つ前の記事からよんでください

ちなみに、空白であると思われた寝坊した日の天使は下の写真でした。


花田勝。



おまえ何歳だよ、という質問には、へへー、申し訳ないとでも返しましょう。

「一人の人間の1日には必ず一人、その日の天使がついている」、なんていう記述を読んだ。気障ったらしい言葉だが、暗く落ち込んだときに、偶然電話をかけてきた友人のある一言が、漫画の一コマが、あるいは形にならない音や空気が自分を救ってくれる、なんてことはよくある。

まあ、友人の少ない私にも毎日そんな天使はいる。日常のささいな支えとなる「モノ」でも、あるいは天使となりうるのである。

朝はいつも携帯電話のアラーム機能を使って起きている。曜日指定やスヌーズなどの機能が非常に充実しているためである。

私はとにかく寝起きが悪い。起きる数十分前の目覚ましに加え、スヌーズ機能を活用し、起きるまでに少なくとも5、6回以上のアラームをかけるという万全の体制をしいて眠りにつく。充実した機能をもつ携帯電話は非常に心強い味方だ。よく気のつくかわいい子である。どうしようもない日常にあって、毎朝の彼の元気な電子音がちょっとした天使となってみえてくるのだ。

しかしそこまでしても、先日危うく遅刻しかけるような時間に起きてしまった。

慌てて歯ブラシをくわえて着替えながら原因を探る。確かにしっかりと6回アラームがかかるように設定している。

いよいよ自分の寝起きの悪さも病気の域に達してきたのか。それともこいつのアラームが壊れてしまっているのか。いずれにせよ、これから一体どうやって生きていこう、という激しい不安で暗澹たる気持ちになってしまい、一日中気が気でなかった。

そこでその夜は以前にも増して激しいアラーム攻勢にでることにした。ギリギリの時間まで実に10回。毎回耳障りなメロディが最大の音量でかかるように設定する。ここまですればさすがに大丈夫であろうと安心して眠りにつく。

次の朝、再度アラームの音が鳴らない中での自然起床。いやな予感がして携帯電話をみてみると、何故かLEDがはらはらと光っている。切なげに、そして控え目に点滅を繰り返す携帯電話を開いてみてようやく合点がいった。どうやらマナー機能をオンにしていると着信音だけでなくアラームの音もでなくなっているのである。

最近はフォーマルな場にいることが多いため、今までほとんど使っていなかったこのマナー機能をオンにし、そのまま寝てしまっていたのだ。

果たして彼は家という開放の場においてもその身をこわばらせ、マナーを守って静かにさざめきながら私の起きるのを待っていたのである。アラームのマナーは人を起こすことだろうが、と少し苦微笑。

まあ、機械だから、というなかれ。かたくなでこわばったこの滑稽な姿は今日の私の天使である。



長いフーテン生活を終え、4月から就職しました。




宇多田ヒカルには目を疑ったよ。

先日読んだ本にこんな人が紹介されていた。

中華料理店でチャーハンを頼む。その口も渇かぬうちに続けてこう言う。

「ライス1つ。」

席に届いたいわゆるチャーハンライス。彼は丸々と盛られたチャーハンの上に白く輝くごはんを置く。軽くソースを一回り。レンゲでさくさくと混ぜるとチャーハン大盛りの出来上がりである。


#

自分の欲望を満たすためならあまりなりふりかまわないタイプである。
貪欲である。あるいは欲望に弱い。
金がない。

こんな3つの特徴が全て備わると、人を上のような楽しい行動に陥らせてくれる。上記の例はハハハと笑って済ませたが、翻って私自身をみてみればそんな行動は当然のようにしていた。

ほぼ同じような例になるが、私はペットボトルのお茶が半分くらいになると水を足して、文字通り「水増し」している。お茶は薄めることによる味の劣化が比較的小さいので(そんなことはないと言うなら、水で薄めたコーラを考えてみればいい。)この方法は日常的に活用している。

これは中学時代の部活(まあ、1年でやめたのだけど)での癖がそのまま染み付いているためのものである。2リットルのペットボトルにお茶を凍らせてタオルで巻いてもって行く。保温性が高いので長時間その凍ったお茶は溶けない。飲むときはそこに水を入れてジャボジャボと振れば冷たいお茶の出来上がりである。氷が溶け切るまでこれを繰り返せば、少しの投資で大量の見返りがあるのだ。

先日友人の前でそれをやったら、「こいつは何をしでかすのだ」という目で見られたが、考えてみるといい。焼酎水割りだってカルピスだって水で割って飲むではないか。それと同じである。

こういう行動は奇異の目ではなく、頭を使って生活をする人を暖かく尊ぶ目で見ていただきたいものである。

#

誰ですか。先ほどの3つの特徴に加えて、「言い訳がましい」という特徴を加えたほうがいいという人は。


時間がないのでどうでもいいネタで

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右、評

アムステルダムのコーヒーショップあたりで、大麻をバッチリ決めようとしているものの、勇気の出ない母。5歳はそれを見て、早くしろよとせかすが、まあ、きめたところで先祖がえりを起こしたりするだけだったりする。

左、評

シンナーの吸いすぎで溶けてぐらぐらになった歯。姉はそんな歯を思い切って抜き捨てる。そこにあるのは後戻りのできない大人の女性になった姉の姿。それをただ見る5歳。

#

非常に恥ずかしながら某インタビューサイトでサイト運営とかを話しています。ものすごく酔ってベロベロになっているときのものなので、なんていうか申し訳ありません。と、セルフハンディキャッピング。興味のある方はどうぞ。


悲喜

前に住んでいた家の大家はいい人だった。70近いお婆さんだが、挨拶をするといつもにこやかに返してくれる。家賃の滞納を報告しに大家の部屋に行くと、悪くした足を引きずりながらダンボールから大量のみかんを引きずり出して(まさに引きずり出す)くれる。

なぜか深夜12時過ぎに路上ですれ違う事が多いのが多少気がかりだったが、いやみのない素敵な女性だった。

ある日、とある手続きが完了した旨を伝えに数ヶ月ぶりに大家に会いに行ったとき。書類などを手渡し、事務的な会話が済んだら、突然彼女がハラハラと泣き始めた。

大家が「貸しはがし」という災難にあったということは以前より聞いていたので、そのことでつらいのか、と訝りながら「どうしたのですか?」と問い掛けると、鼻をすすりながら答えてくれた。

「なんとか、お金の工面がついたんです・・・」

「わあ、よかったですねえ。」

「○○信用金庫さんがお金を貸してくださることになって・・・」

「これでなんとかなりそうですか?」

「○○信用金庫さんに審査を依頼してて旦那と来る日も来る日もいい結果を期待して待ってたんです。すると電話がかかってきて」

「ほうほう」

「旦那が出たんです。そして審査に合格した旨を聞いた旦那が喜びすぎて転んで死んでしまったんです・・・」


なんとも喜劇的なその出来事に思わず私は笑いそうになってしまい、それを抑えると二の句が継げなくなった。沈黙に耐え切れない私が必死で搾り出した言葉がこれだった。

「ハハハ・・・そりゃあ災難ですねえ」


人生泣き笑いなんていう。思い切り笑った直後に泣いた人、それを軽く愛想笑いでかわした私は自分に泣いた。泣き笑いのサイクルが短いなんてロクなことない。


幻想足りて諧謔を知る

下の写真をみていただきたい。上からみっつめ、コカン・コキーヌである。



我が目を疑うばかりであるが、確かに存在するコカンコキーヌ。しかも婦人服。

Googleで検索をしてみると、様々な声があがっていた。

「コカン・コキーヌ超かわいい。」
「オリーブ少女御用達!」


読めば読むほど女性への幻想が崩れていく。

先日飲み会に出席したとき、ボーダーにメガネのすてきなオリーブ少女がいた。ああ、私の好みにずっぽりだなあと彼女をみていたのだが、酒が進むにつれ彼女の挙動がおかしくなり、最後には何も言わず隣にいた私の友人(男)の乳首をTシャツの上からひたすらこねくりまわしていた。

その夜はオリーブ少女への幻想の崩壊と自分の乳首の魅力への絶望とでやけ酒をしたものだ。

そのような体験が重なった今。女性はぼんやりとした姿を失った。幻想はもう足りきった。僕は生身の女性から自分の身を守るために、諧謔を武器に胸を張って女性に話しかけよう。

「今日は君のコカンコキーヌを思い浮かべて家でコカンコキーヌでした。」