でっかい半紙にでっかい筆で書道する女子の、その情熱の強さは否定しない。というか素晴らしいものだと思うが、その美意識は全く理解出来ない。

巨大習字ファンの方は、ここは違う美意識を持っている人間の好みの問題と捉えてそっとしておいてほしい。もしくは、これは私がひとえに多くの人が理解する芸術を解する能力がないということだとの謗りを頂いても構わない。なお、「女子が黒墨でビッタンビッタン汚れるのがいいのや!」という方には、「言っているお前自身が真っ黒に汚れているのや!」と申し伝えたい。いい趣味だと思います。

私はあの行為を見るたびに「文化的マッチョ」という言葉が思い浮かぶ。独りよがりな表現自体は大好きなのだが、こういう老若男女問わぬ盤石な「書道」という下敷きがあるものに依拠した独りよがり(あえて言い切る)な行為を見ると自分の中で強烈なアラートが上がって、「危険なもの」としてかなり厳重に身構えてしまうのである。

ビターン!とやることの攻撃的な陶酔が、ひたむきさと女子高生のポップさのオブラートで包まれる。それがさらにマッチョ的な価値観の中で錬金術のように価値を生み出して、広範囲を巻き込んでそこそこの訴求力を持ち、ひいては作品自体が徐々に価値があるように見えてくる。これがちょっと怖いのだ(もちろん、その周囲も含めての価値であることは了解しているが)。

でも唯一いいかもなあ、と思うのは「字の上にいる」ということだ。理由はうまく言語化できないけれど、それは一種の高揚であるかもしれない。普段の生活の中で字に囲まれていることはあっても、フィジカルに「字の上にいる」なんてことはあんまりないなんていう非日常性からだろうか。

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いや。普段から文字を下敷きにして歩いている。我々は。だとしたらなんだろう、この高揚は。

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なお、先月長渕剛がやった巨大習字はすごかった。「あんなことを書くとは!」という驚きと「長渕剛なら書くよな、これは!」という納得感のバランスに唸った。

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「殺気」。まあ、元々決まってたツアーの名称らしいが、それにしても「殺気」。


coldsoup

自称ホームページ第3世代の旗手

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