藤原マキ「私の絵日記」とつげ義春「外のふくらみ」について

昨日、藤原マキ「私の絵日記」という本を読んだ。

この本は1980年頃の調布の団地でオトウサン(夫)と4歳の息子と暮らす女性が描いた約1年間の絵日記だ。見開きに数行程度の簡潔な文章と絵。巻末に寄せられたオトウサンの言葉によると「荒削りのいかにも素人の作品(中略)、でも絵は神経質なところはなく、子供っぽい伸びやかな面があって」という評。オトウサンの口は悪いが、言う通り絵は上手とも言えない。けれど、一見から不思議な柔らかさがあって、読んでいてとても心地がよい。

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一月十六日
正助は鼻がつまって、特に寝た時は大人のようないびきをかくので、暮れからずっと耳鼻科に通っている。私は待合室で待っているのだが、のれんの下から見ると、神妙な顔をして吸入器を当てゝいるのでおかしくなる。

描かれるほとんどが上のような日常を彼女の画角でそのまま描写したものだ。起伏はない。でも、この絵と文章が何枚も何枚も続くと、彼女によって大事にされた息子と、大事にされたオトウサンの姿が、たいそう滑稽だけど愛おしく浮かび上がってきて心が掴まれてしまう。髪が人一倍太いオトウサン(カミソリで切るんだって!)、たこあげで母がいなくなってベソをかく息子。それらを見ていると、もちろん描かれた男二人もだけど、家事を終えた後、「カーチャンの部屋」と呼ばれる台所でせっせとそれを書く作者の後ろ姿が思い浮かんでしまう。

その背中は、私にはとても切実で祈りに近い、願いを持ったものに見える。特別なことは起こらない、言葉にも出していないのに、その願いに胸が締め付けられるような思いをしながらページをめくるハメになるわけである。
(まあ、妻ともうすぐ3歳の息子との3人暮らしであるという自分の状況による部分が大きく影響しているだろうけど)

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絵日記は後半から少し状況が変わってくる。オトウサンが不安神経症にかかってしまうのだ。これにはさすがに彼女も参ってしまう。これまで文章に出てこなかった願いが以下のように文字として現れてきてしまう。

20130521-084220.jpg四月二十八日 晴

初夏のような暑さになった。
いつものように正助を幼稚園から連れて帰り昼食。オトウサンも今日は少し楽な様子なので外へ行こうと誘ってみた。あんまりいゝ天気なので思い切って少し遠出した。「野川」の土手で自転車をとめ、正助を遊ばせた。正助はまるで生き返ったように花や虫と遊んだ。

太陽がキラキラ輝き、花は咲き、つかの間の辛さから逃れて平和な気持ちに包まれた。このまゝこゝにずっと居たいと希い、もう帰りたくないという気分になった。

これを読んで思い出した。この絵日記が描かれたのと同じころ、オトウサンである漫画家、つげ義春はこんな作品を発表していた。

外のふくらみ

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彼女が見て、「ずっと居たい」と希った光景は、オトウサンにとって、侵入してくる「外」に見えていたのだろうか。私は同じ頃に夫婦二人それぞれが描いた素晴らしい作品を見ることができることを幸運に感じるが、どうにも自分が勝手に投影した思いがずったんずったんに引き裂かれるこの感覚はいかんともしがたく、言いようがない。

本書巻末に掲載されているオトウサン(夫)つげ義春のあとがきは、そのズタズタの心をさらに鎌でバッサバッサと刈り切るもので、ここまでくるともはや爆笑するしかないのだけど。でもこの文章の最後には、そのどうしようもない野原に、カチカチなったおまんじゅうをポンと置くような一言がある。

・・・、まあそこらへんは読んで確認していただければ。ググれば出るけどさ。

藤原マキが描いた絵本「こんなお店しってる?」はウチの息子も大好きです。


藤原マキ「私の絵日記」とつげ義春「外のふくらみ」について」への1件のフィードバック

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