ガキアート 〜ラーメン屋の落書きより〜
オカンアートの味わいも捨てがたいですが、私としてはやはりガキアートというものに強く心惹かれるのです。
ガキ(敬称)の書いた奔放なアートを観ていると、スキー場の食堂にあるうどんコーナーの絵ばかりを偏執的に描いていた自らの幼少時代を思い出し、少し痒い気持ちになります。
そういうわけで、本日は新潟のとあるラーメン屋の落書き帳で発見したガキアートの数々をご紹介したいと思います。
(店主の目を盗みながら撮ったため、角度など微妙なところがありますが、何とぞご了承ください。)
■情熱
藤崎マーケットのネタであるラララライ体操を文字起こししたものだが、この「イ」と「人」の間違いに脳の凝り固まったゲシュタルトをリセットする快感がある。よく見ると1回目がララライとなっており、なんとなくアリスっぽさが漂っているのも見どころである。
■くずれ
けしょうすい
↓
クリーム
↓
下ぜせ
下ぜせである。化粧水をつけてクリームを塗る。その上での「下ぜせ」。どんなものかはよく分からないが、とりあえず粒状感があってくすんだ色合いのものに違いない。
さらに「下ぜせ」の次にも矢印があるがその先は白紙だ。そのことにより「藤岡弘、」のような余韻を残すことに成功している。
■まま25さい
「記憶スケッチアカデミー」的な遊びだろうか。
おそらく上部の滑らかな描線は大人によるものだろうと思うが、下段に行くと突然うろおぼえ度が高いネズミが登場する。私もそんなに詳しい方ではないが、こんなスネ夫のような口はしていなかったような気がする。
続いてぱぱ。目つきの悪さと頬の感じは記憶の中にあるものをしっかり描けているような感じがするが、頭頂部の描き方は圧倒的なうろ覚えのために、頭の形を描くことすら放棄している。
最後には「まま」は年齢しか覚えられていないという衝撃の結末を迎える。描くことを放棄することによりその家族像を描く。我々に問いかけるものの多い作品である。
■有と無
確かに線はあるのに、結局何も描かれない。パッと見、絶望的な放棄を感じるが、ふとその右側にできたくびれとそのとなりにある弧を見ると、ふわりとした優しさを感じる。
■ごぼう
ごぼうだ。ごぼうに違いない。
たくあんのような気もする。そうだ、そうに違いない。
そんな私の浮き立つ認識をよそにぎこちない描線が上は閉じ、下は開いて紙幅いっぱいに躍動する。
左にはそこはかとなくひらがなを思わせる線があるが、認識する阿呆を嘲笑うような最後の△が美しい擦れを描いている。
■イカとクジラ
描線から前作「ごぼう」と同じ作者によるものであると予想される。
そこには「色」という次元が追加され、そして紙を2枚使うまでに大仰なものとなり、技術と情熱の向上を感じさせる。
しかし受け取る側からしてみると、青という水や空を連想させるものが描かれたことにより、「ごぼう」に描かれた「たくあん」にも「ただの線」にもなりうる無限の濃度が薄まっているように感じる。
そうはいっても、どこに向かおうとしているか分からないという恐怖は依然としてある。とりあえず、私としてはなんとなく、イカとクジラと命名させていただきたい。ただ、なんとなくだ。
■輪廻転生
説明は放棄させていただきたい。
#
そういうわけで、皆様も巷にあふれるガキアートを見つけたら当方までお送りいただければ幸いである。
※関連記事
「終わりがないのさエンドレス」
園児がまんぼうを描いています。
誰か、私もトークライブに呼んでくれませんかねえ
中学生の習字です。
ガキ(敬称)の書いた奔放なアートを観ていると、スキー場の食堂にあるうどんコーナーの絵ばかりを偏執的に描いていた自らの幼少時代を思い出し、少し痒い気持ちになります。
そういうわけで、本日は新潟のとあるラーメン屋の落書き帳で発見したガキアートの数々をご紹介したいと思います。
(店主の目を盗みながら撮ったため、角度など微妙なところがありますが、何とぞご了承ください。)
■情熱
藤崎マーケットのネタであるラララライ体操を文字起こししたものだが、この「イ」と「人」の間違いに脳の凝り固まったゲシュタルトをリセットする快感がある。よく見ると1回目がララライとなっており、なんとなくアリスっぽさが漂っているのも見どころである。
■くずれ
けしょうすい
↓
クリーム
↓
下ぜせ
下ぜせである。化粧水をつけてクリームを塗る。その上での「下ぜせ」。どんなものかはよく分からないが、とりあえず粒状感があってくすんだ色合いのものに違いない。
さらに「下ぜせ」の次にも矢印があるがその先は白紙だ。そのことにより「藤岡弘、」のような余韻を残すことに成功している。
■まま25さい
「記憶スケッチアカデミー」的な遊びだろうか。
おそらく上部の滑らかな描線は大人によるものだろうと思うが、下段に行くと突然うろおぼえ度が高いネズミが登場する。私もそんなに詳しい方ではないが、こんなスネ夫のような口はしていなかったような気がする。
続いてぱぱ。目つきの悪さと頬の感じは記憶の中にあるものをしっかり描けているような感じがするが、頭頂部の描き方は圧倒的なうろ覚えのために、頭の形を描くことすら放棄している。
最後には「まま」は年齢しか覚えられていないという衝撃の結末を迎える。描くことを放棄することによりその家族像を描く。我々に問いかけるものの多い作品である。
■有と無
確かに線はあるのに、結局何も描かれない。パッと見、絶望的な放棄を感じるが、ふとその右側にできたくびれとそのとなりにある弧を見ると、ふわりとした優しさを感じる。
■ごぼう
ごぼうだ。ごぼうに違いない。
たくあんのような気もする。そうだ、そうに違いない。
そんな私の浮き立つ認識をよそにぎこちない描線が上は閉じ、下は開いて紙幅いっぱいに躍動する。
左にはそこはかとなくひらがなを思わせる線があるが、認識する阿呆を嘲笑うような最後の△が美しい擦れを描いている。
■イカとクジラ
描線から前作「ごぼう」と同じ作者によるものであると予想される。
そこには「色」という次元が追加され、そして紙を2枚使うまでに大仰なものとなり、技術と情熱の向上を感じさせる。
しかし受け取る側からしてみると、青という水や空を連想させるものが描かれたことにより、「ごぼう」に描かれた「たくあん」にも「ただの線」にもなりうる無限の濃度が薄まっているように感じる。
そうはいっても、どこに向かおうとしているか分からないという恐怖は依然としてある。とりあえず、私としてはなんとなく、イカとクジラと命名させていただきたい。ただ、なんとなくだ。
■輪廻転生
説明は放棄させていただきたい。
#
そういうわけで、皆様も巷にあふれるガキアートを見つけたら当方までお送りいただければ幸いである。
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園児がまんぼうを描いています。
誰か、私もトークライブに呼んでくれませんかねえ
中学生の習字です。