猩猩寺の庭はなぁ。あれでございますよ。
今では廃寺となったとある修行寺のお話でございますが。
まあ、そのお寺さんの末期といいますのは非常に目も当てられない状態でございまして、坊主が部屋に女性を連れ込んではスカルファックを楽しんでおったり、裏山にはチョウセンアサガオが生い茂っておったりしたわけでございます。寺では「あー、生まれたー」というのがまた流行語としてまかり通り、輪廻転生の素晴らしさというものを説いて回ったわけでございます。
「いやあ、女性の中にいると、生まれ変わった気がするのですよ」
当時その寺で修行僧が言った言葉でございます。生まれ変わる。これはまた人間それぞれが抱く泡沫の幻想でございまして、かまくらの入り口を閉じてその酸欠を楽しむように、修行僧どもは女性器にあたまを突っ込み、その自分の死と、「そこから何とか舞い戻った」というなんとも軽い生を楽しんでおったわけであります。
えー。その寺にとある日、切僧(せっそう)という僧侶が来まして。切僧は非常に眉目秀麗な男子でございまして、その青い頭がなまめかしく輝いておりましてですね。肉欲の生活を送る脱し切れない男どもは女をそっちのけで、何か間違ってるなと思いつつも、彼のその青い頭に並々ならぬ欲情を燃やしておりました。
「切僧や!切僧や!」
「ハイ」
「ワシのこのふぐりの裏側をお前のその頭でツンツクしてくれんか」
「いや、お待ちくださいませ」
「これが青い春のツクシンボっちゅう奴や」
「春ですか。」
そのうち、切僧は耐え切れず、その青々とした頭を雪にまみれさせながら山を出ます。その事実は寺を揺るがし、僧たちは再び女性器に頭を突っ込みながらこう言うのであります。
「切僧がいない。せっそうがいない、せっそうがない」
とまあ、こういった経緯で「節操がない」という言葉が出来上がったわけですな。
そういうわけで、本日の節操のない画像。
ダンサーインザダークとか、そういったものを狙っております。
インディアンとかそういった悲哀を体現するものでございます。
切僧がおらん。切僧がおらんぞ。そう私も叫ぶわけで。
まあ、そのお寺さんの末期といいますのは非常に目も当てられない状態でございまして、坊主が部屋に女性を連れ込んではスカルファックを楽しんでおったり、裏山にはチョウセンアサガオが生い茂っておったりしたわけでございます。寺では「あー、生まれたー」というのがまた流行語としてまかり通り、輪廻転生の素晴らしさというものを説いて回ったわけでございます。
「いやあ、女性の中にいると、生まれ変わった気がするのですよ」
当時その寺で修行僧が言った言葉でございます。生まれ変わる。これはまた人間それぞれが抱く泡沫の幻想でございまして、かまくらの入り口を閉じてその酸欠を楽しむように、修行僧どもは女性器にあたまを突っ込み、その自分の死と、「そこから何とか舞い戻った」というなんとも軽い生を楽しんでおったわけであります。
えー。その寺にとある日、切僧(せっそう)という僧侶が来まして。切僧は非常に眉目秀麗な男子でございまして、その青い頭がなまめかしく輝いておりましてですね。肉欲の生活を送る脱し切れない男どもは女をそっちのけで、何か間違ってるなと思いつつも、彼のその青い頭に並々ならぬ欲情を燃やしておりました。
「切僧や!切僧や!」
「ハイ」
「ワシのこのふぐりの裏側をお前のその頭でツンツクしてくれんか」
「いや、お待ちくださいませ」
「これが青い春のツクシンボっちゅう奴や」
「春ですか。」
そのうち、切僧は耐え切れず、その青々とした頭を雪にまみれさせながら山を出ます。その事実は寺を揺るがし、僧たちは再び女性器に頭を突っ込みながらこう言うのであります。
「切僧がいない。せっそうがいない、せっそうがない」
とまあ、こういった経緯で「節操がない」という言葉が出来上がったわけですな。
そういうわけで、本日の節操のない画像。
ダンサーインザダークとか、そういったものを狙っております。
インディアンとかそういった悲哀を体現するものでございます。
切僧がおらん。切僧がおらんぞ。そう私も叫ぶわけで。