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私のホッケ

広島にはホッケという魚を食う文化はなかった。少なくとも私の高校生までの食生活の中にはその「ホッケ」という言葉すら頭の中に無い。姉と二人暮らしの食卓はいつも冷静で淡々として、平坦だった。

時は過ぎ、大学に入った。

バンドのサークルの新人歓迎会で養老の瀧に行く。東京に来て初めての飲み屋。私がおどおどしながら座った隣には3年生のYさんという得体の知れない男性が座っている。細身にベルボトムのジーンズ。おかっぱ頭。その容貌以上に気になるのはひどい空気感。毒気に当てられたように何も出来ない磁場みたいなものがこの人の周りには張り巡らされていた。私は座ってから一言も話すことができず、また、Yさんも誰とも話さず、ぷかりとケントマイルドをくゆらしている。

注文は?

どよりとした空間を切り裂くように入り口付近の先輩から明るく問いが飛んだ。Yさんはゆっくりと入り口の先輩に向きなおし、静かに一言、こう言い放った。

「ホッケ。」

何。そのスポーツ然とした単語。

動揺する私。再びケントマイルドをふかすYさん。「何ですかそのホッケというものは」1つの話題のきっかけとなるその言葉がのど元でつかえて出ない。そうこうしているうちに飲み物が届き、料理が徐々にそろい始める。おたがい無言のまま時間が過ぎる。

私たちの周りだけとろみのある時間でよどんでいると、亀井静香似の女性店員が皿を持ってやってきた。

「お待たせしました。ホッケです」

彼女が持ってきたその皿には、開かれた大きな魚が乗っていた。これがホッケ。「ホッケってこんなんなんですね」2つ目の話題のきっかけとなる言葉がやはり口から出てこない。しんとした澱のようなものが胃の奥底に沈んで体が重い。動けない。

飲み慣れない生ビールをぐいと飲む。OASISの話で盛り上がる周囲の楽しそうな声に混ざる自分ののど元のウグウグ。Yさんはほっけの大根おろしに醤油をかけ、身をもぎりとる。口に運びながら私のほうを向き一言こう言った。

「最近どうですか。」

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この後、私はこの人の主宰するバンドのメンバーとなり、シャウトを担当することとなる。