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右手に花束、左手に自由、口にマイルーラ

なかったのだ。

会社への行き帰りにいつも通るラーメン屋の店先には、ガラスのケースに入れられた蝋のサンプルが置いてある。

別段何の変哲もない、普通のラーメンを手間暇かけて固く再現した蝋サンプル。どんぶりの3分の1を覆うチャーシュー。スープの色と同化して目立たないが、確かにそこにあるメンマ。彩りを一手に引き受ける麺。スープの表面に姿をほんのり浮かび上がらせる麺。それが人手に触れないよう、ガラスケースに厳重に入れられている。

「フム、蝋だね」などと、すまし顔で通り過ぎるものの、そのたび自分の中にふと静かな意識の乱れが起こるのを感じていた。

それが今日、ない。

いつもどおりガラスケースは置いてある。しかしの中はもぬけの殻なのだ。

突然の喪失感にハタと立ち止まり思わず周囲を見回す。どこにもない。不安に心臓が鳴る。もしや盗まれたのでは・・・?

と、既に閉店してしまった店の扉から一筋の明かりが射している。戸が少しだけ開いているようだ。思わず私はにじり寄り、店の中にいる店員と道を歩く通行人の両方にバレるかバレないかギリギリの体勢で中をうかがってみた(われながら器用な体勢だったと思う)。

蛍光灯の明かりの中、カウンターに店員が座っている。そして何かを抱えている。

ラーメンの蝋サンプルだ。

彼はいつくしむかのようにラーメンの蝋サンプルを膝に抱え、ガーゼのようなもので手入れをしているのである。

店内を覗きながら私は、自分がその蝋サンプルに抱いていた欲望をようやく把握した。そうか。俺はあの蝋サンプルを撫でたかったんだ。

自分と同じ欲望を着々と満たし続ける店員に対して、憧れのような、膝をつねりたくなるような憎しみを抱きながら、私は夜のマッチ売りの少女と化した。