満員電車発車オーライ
山手線終電あたり。新宿から日暮里に向かうため乗った車両は大変な混みよう。背後を若者二人組、そこから時計回りに濁った白眼の初老の男性、妙齢の女性、頭が綺麗に禿げあがった男性、若いのに異様な白髪をした男性にぐるりと囲まれた私は息苦しい思いをしながら扉の上部についたディスプレイを見るともなしに見ていた。
満員電車は奇妙だ。距離学でいう「親密な距離」に、数えるのも嫌になるほどの人間の侵入を許し、呼気を顔に浴び、自分宛てでない囁きや、携帯電話のボタンを押すカチカチとした音や読んでいる小説が佳境に入って興奮した人の鼻息を明瞭に聞き取らされる。
慣れればどうということはないが、改めて見ると都心(あるいは都心に近い場所)に住む人の日常にどーんと大きな特殊が横たわっていて、憂鬱なようなどうでもいいような存在感をはなっている。とても面白い。面白いけどそろそろいいかな。
そんなことを考えていたらディスプレイが広告を写し始めた。
ANAの成田⇔シカゴ線再就航のCM。
バスケットボールの試合シーン。画面内ではシカゴのバスケットボールチームのユニフォームを着た「鹿」が華麗なプレイを繰り広げる。ダンクをギゴッと決めたところで、監督役の長嶋一茂がガッツポーズ。最後は鹿が五頭並んでシカゴでお買い物という、駄洒落もいい加減にしてよ、という内容。
何度か見て飽き飽きした私だが、他に目のやり場もないからこの映像を見ていたら、このCMの開始を目にとめた私の背後の若者二人組が話し始めた。
「これ!これみろよ!」
「あー、このCM?」
「これ面白いよなー、最高」
「確かに。」
そうかなあ。私はそう思いながらCMから目を離す。この若者たちにつられてCMを見たという状況になってしまうのが恥ずかしいからだ。二人の会話は続く。
「ていうか、なんで一茂ていうね。」
「トナカイがバスケてのがね。」
あれは鹿だ。トナカイだったらCMが全ての意味を失ってしまう。
「あれ、なんでトナカイなの?」
「いや、クリスマスとかじゃない?」
「カナダとかじゃね?」
だから鹿だし、クリスマスはまだ先だし、シカゴはカナダじゃない。そして、何故に私はこのCMの意図するところを擁護しなくてはいけないのか。そんなことを考えながら、電池の切れた携帯オーディオを恨み、荒い鼻息を禿げ上がった男性の後頭部に吹きかけた。
満員電車は奇妙だ。距離学でいう「親密な距離」に、数えるのも嫌になるほどの人間の侵入を許し、呼気を顔に浴び、自分宛てでない囁きや、携帯電話のボタンを押すカチカチとした音や読んでいる小説が佳境に入って興奮した人の鼻息を明瞭に聞き取らされる。
慣れればどうということはないが、改めて見ると都心(あるいは都心に近い場所)に住む人の日常にどーんと大きな特殊が横たわっていて、憂鬱なようなどうでもいいような存在感をはなっている。とても面白い。面白いけどそろそろいいかな。
そんなことを考えていたらディスプレイが広告を写し始めた。
ANAの成田⇔シカゴ線再就航のCM。
バスケットボールの試合シーン。画面内ではシカゴのバスケットボールチームのユニフォームを着た「鹿」が華麗なプレイを繰り広げる。ダンクをギゴッと決めたところで、監督役の長嶋一茂がガッツポーズ。最後は鹿が五頭並んでシカゴでお買い物という、駄洒落もいい加減にしてよ、という内容。
何度か見て飽き飽きした私だが、他に目のやり場もないからこの映像を見ていたら、このCMの開始を目にとめた私の背後の若者二人組が話し始めた。
「これ!これみろよ!」
「あー、このCM?」
「これ面白いよなー、最高」
「確かに。」
そうかなあ。私はそう思いながらCMから目を離す。この若者たちにつられてCMを見たという状況になってしまうのが恥ずかしいからだ。二人の会話は続く。
「ていうか、なんで一茂ていうね。」
「トナカイがバスケてのがね。」
あれは鹿だ。トナカイだったらCMが全ての意味を失ってしまう。
「あれ、なんでトナカイなの?」
「いや、クリスマスとかじゃない?」
「カナダとかじゃね?」
だから鹿だし、クリスマスはまだ先だし、シカゴはカナダじゃない。そして、何故に私はこのCMの意図するところを擁護しなくてはいけないのか。そんなことを考えながら、電池の切れた携帯オーディオを恨み、荒い鼻息を禿げ上がった男性の後頭部に吹きかけた。