"Baron Coquille" tribute site
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私の「コキール男爵」 「コキール男爵」の感想や内容の紹介文を書きたい気持ちは大いにあるものの、書いてしまっては読んでない人へのネタばらしになってしまいます。 [ Menu ] ---- ---- 「春雨は中国産緑豆」 春雨に凝ってた。全盛期は過ぎたが今でも好きだ。断っておくが、私の春雨全盛期には、まだエースコックの春雨ヌードルは発売されていなかった。春雨ブームが到来する前のことである。 鍋料理に春雨を入れたとき、食べ終わるころには、レンゲや菜箸でつかみ損ねた春雨達が土鍋の中で泳いでたりする経験を誰もがしたことがあるだろう。この春雨には、鍋の中に放出されたありとあらゆる旨味が吸収されている。鶏肉の骨から滲み出すあのエキス、魚つみれから放出される濃厚なダシ、野菜から溶け出す上品な甘み、利尻産昆布の香り。鍋の具を楽しんだあとに残ったスープで美味い雑炊を作ろうと考えていても、うっかり春雨を食べ忘れてしまおうものなら、春雨が旨味を吸い取ってしまい、そこにはもうご飯が立ち入る隙はない。旨味を土鍋に戻そうと春雨を絞ってみても、一旦吸収されてしまった旨味はもう戻ってはこない。春雨が千切れるだけである。そんなときは潔く春雨を楽しんで欲しい。春雨を追加して旨味を食べ尽くすのも1つの手である。 拘りはある。中国産緑豆100%が原料であること(※3)。中国=中国4000年の歴史は深い。緑=なんか身体によさそう。→やっぱ中国産じゃなきゃねって拘り。違いはわからない。 ちょっと調べてみた。高級春雨ってあるのだろうか?
※1 マロニー ※2 高級はるさめ ※3 2004.6事件:中国産春雨から日本で認められていない添加物が検出 「中華汁」 朝一で私鉄沿線の知らない町に行き、一仕事を終えたら昼の12時になっている。ああ、そろそろ午後からの活力を蓄えなくてはならない。12時に飯を食うことなんてのに強いこだわりはないけど、なんか胃が頑是無き子のように暴れているんだよね。そういえば今日は朝飯も食べてない。ここはひとつガツンと食って胃を黙らせたほうがよいのではないか、なんて思ったり。 こんな状況になることは多い。でも全く知らない町で満足のいく店を探すのは非常に困難である。 あてもなく寂れた商店街を歩く。店のある区間が終わりそうなころに、なんだか珍とか宝とかつく中華定食屋(本稿では仮に宝来園としよう)を発見する。今まで歩いてきたけど、なんかランチ900円なんてすし屋とか、ハムエッグ定食650円とかふざけた値段設定の定食屋しかない。さっき一瞬立ち止まった蕎麦屋も、黒ずんだ蝋サンプルが並んでたし、隣に飾ってある花もしおれてた。今はそんなリアリズムに浸る余裕なんてない。私はとにかくモリモリ食いたいんだ。 昼飯に悩んでいることを悟られないよう、存在の耐えられない軽さに絶望した表情をしながら、道の真ん中に立ち止まってしばしの逡巡。カツ丼、なめこそば、さばの味噌煮がグルグルと頭を回る。そしてその第3コーナーあたりで肉野菜炒めにたどり着く。そこで私の頭ではもうチェッカーフラッグが振られている。さあ、もりもり食べ野菜。鈴木杏樹の出てた古いCMを思い出しながら宝来園に行くことに決める。意気揚々と扉を開ける。 店に入ると「いらっしゃい」って声が聞こえる。そのままクルクル回る丸椅子に座り、壁のメニューを見る。 肉ー野菜ー炒めーはー。650円か。 ちょっと高い。ここで少し気持ちが揺らぐ。500円のラーメンにしたほうがいいんじゃないか。確かに中華定食屋のラーメンはまずい。トリガラ臭くてショウガの味しかしないものばかりだ。でもあの麺をズバズバ啜る感じ。あの快感が脳裏をかする。振られたチェッカーフラッグが風にはためきすぎてグルグル巻きになってくる。もりもり食べたい気持ちは、ズバズバ啜りたい気持ちに取って代わられそうだ。しかしここで思い出すのだ。 肉野菜炒め定食にはスープがあるじゃないかと。 私はこれを思い出すだけで、ラーメンの誘惑から逃れることができるのである。そして運ばれてきた肉野菜炒めとスープを一通り食べ、ああ、ラーメンを頼まなくてよかった。スープのおかげだな、と、胸と満腹の腹をなでおろすのである。 中華定食についてくるスープはラーメンのスープの流用であることが多い。いや、ほぼそうだろう。 しょうゆ味で、くどくて、白ネギがパラパラとかかっただけの具がほとんど入っていないスープ。生姜くさくて鶏がらがしつこいこのスープを飲むと、ラーメンの惨状がまざまざと脳に思い浮かぶ。もし私がラーメンを頼んでいたら、この微妙なスープにムニョムニョした麺と固いチャーシューを食べて、陰気な気持ちでいっぱいになっているはずだ。 そんなラーメンの誘惑に打ち勝ち肉野菜炒め定食を頼んだ私は、となりでラーメンをすすっている人を思い切り見下すのだ。ヘヘッ馬鹿め。150円の差ってのはこういうことなんだよ。見ろ、この肉野菜炒めを。白く光るもやし。青々と存在を主張するニラ。そして豚肉は無二の喜びを私に与えてくれる。こんなラーメン食ってて悲しいね。スープを一口。おーこりゃだめだー。 しかし、そんな高貴な考えと同時に、「ああ、ラーメンの味が味わえてよかった。お得だね!」なんていう下賎な考えも脳裏をよぎる。そう考えると、この微妙な味のスープのしょっぱさがいとおしく思えてくる。肉野菜炒めのもやしをちょっとだけスープに入れて豪華にしてやりたい気持ちにもなる。そしてもやしを啜って麺気分だ。 肉野菜炒めとごはんとおしんこを先に食べ終え、最後にズズズとスープを飲み終える。ごちそうさま。ありがとうスープ。ふざけんなスープ。会計で650円を払う私の心は、まさにLove & Hateなのである。私にとっての昼メロは12時からなのである。 この愛憎入り混じった感じは何かに似ている。ああ、それはあれだ。不思議ちゃんだ(いや、この言葉自体発することに大きな抵抗があるが、他に彼女たちを表現する。方法を知らないので仕方なく使わせていただいている次第である) 不思議ちゃんは意識的、あるいは無意識的に了解不能な発言をする。私はその姿をみて、ああ、このやろう。てめえらのようなキャラクターなんて見飽きたんだよ。もうちょっといい攻め方あるだろうが。作為でもなんでもいいからもうちょっと自分をよく見て発言をしやがれ、とイライラするのであるが、同時に、「あー。もう仕方ないなあ。ああ。かわいい」などと思ってしまっている自分もいる。まさにLove & Hate。 でも、もう今は何も言えなくて・・・スープ。 そういうわけで、中華定食のスープは恋心である、という結論でよろしいか。 「吉野家」 子供の時、あこがれていた食べ物がある。 それは吉野家の牛丼。吉野家の無い街(※1)で育った俺は、テレビでキン肉マンがCMソングにのせて「牛丼一筋300年」と歌うたび、どんなに美味い食べ物なのだろうと空想していた。まあ300年というのはキン肉マンが言ってただけで、本当のCMは牛丼一筋80年だったらしいが、元のCMが放送されてないのだから田舎の子供達は300年の歴史を信じ切っていたと思う。ちなみにキン肉マンの放送年は1983〜1986年。その300年前と言えば、1685年に五代将軍綱吉が生類憐れみの令を公布し、四本足の肉を食べることを禁じたらしい。牛丼屋なんか無いに決まってる。 今から10年前、高校の修学旅行で東京に行った時、自由行動の時間を利用して、有楽町の高架下にあった吉野家に入った。その時の興奮は忘れられない。キン肉マンが言ってた通り、はやくて、うまくて、やすかった。本当に感動した。大人になったら上京して牛丼を食いまくろう。単純な田舎の高校生は、そう決意していた。 修学旅行から半年もしないうちに、地元に吉野家ができた。ものすごく喜んだが、いつでも食えると思った途端に、牛丼への思いは薄れていった。 あこがれの食べ物は、なかなか食えないからこそ輝いているように見える。それはまさしく恋の魔法。 いま米国産牛肉のBSE騒動は、再び日本中に魔法をかけているようだが、俺は絶対かからない自信ある。一度とけた恋の魔法は、もう二度と戻らないのだ。ていうか牛丼あきた。 ※1 吉野屋の無い街 「アドボの謎」 フィリピンの伝統的な料理アドボに相当する料理が日本になかったのは何故だろう?いや、ひょっとしたら私がものを知らないだけで、山陰地方では「ばばあ煮(※1)」という料理が古くから伝わっていて、それがアドボとそっくりだったと言う可能性もあるが、ここはひとまず私の顔を立てて「無かった」ことにして頂きたい。 最近になって酢を販売しているメーカーが「さっぱり煮」と言う呼称で、煮物料理の味付けのバリエーションを増やすための提案として酢を入れる事を提唱していることから考えても、長いこと煮物と酢は結びつきは弱かったことを窺い知ることができる。酸っぱい煮物が登場するのに充分な材料はあった。酢も醤油も和食には欠かせない調味料だし、煮込み料理だって得意のフィールドのはずだ。それなのに「酸っぱい煮物」が無いと言うのは、考えてみると不思議なことだと思う。 うっかりしていた。アドボを食べたことが無い人が居るかも知れない。これまでの説明である程度想像はつくかもしれないが、少し具体的にアドボとはどのような料理か説明しておこう。我が家ではアドボを次のように作っている(※2)(以下、妻のレシピメモから抜粋)。 (材料)4人前
肉の種類や部位はそのときどきによって変わる。乱暴な言い方をすれば、薄切り肉でなければ何でも良いだろう。大根を入れてもおいしいし、試したことはないが魚でもおいしいと思う。あと、現地ではハチミツは入れないそうだ。 このアドボ、肉も卵も醤油と酢の味が染み付いて実にうまい。肉の味が酢で薄まるかというとそんなことはなく、むしろ油のうまみを上手に引き出してくれている。卵も醤油卵とはまた違ったうまさがある。人によっては白いご飯との組み合わせには抵抗があるかもしれないが、私は肉にタレをいっぱいつけてご飯に乗せて食べるのが好きだ。ガーリックトーストと一緒に食べるという手もある。ときどきパンの端をちょっとタレにつけたりして。 話を戻そう。アドボに相当する料理は和食にないが、それ以前に「暖かくて酸っぱい料理」というのが和食には存在しないように思われる。いや、ひょっとしたら私がものを知らないだけで、四国では…(中略)。和食における酢の使い方は、酢の物にしても酢にしても冷たい状態で食べるものばかりだ。馬鹿みたいにシンプルな推測だが、多分、多くの人が「温めた酢の香り」を苦手としているのではないだろうかと思う。確かに酢の蒸気は刺激が強く苦手に思う人が多いであろうということは容易に想像がつく。ただ、アドボを食べると解ることなのだが、味覚上の刺激はそれほど強くない。冷たい酢の物よりも酸味は少ないと言っても良いだろう。近代以前の料理人たちが「香りがきつい」という時点で酸っぱい煮物の可能性を諦めてしまったのが悔やまれる。意気地なし!(※3) ついでに言っておくと、他の煮物がそうであるように、アドボは冷めてもまた別のおいしさがある。「暖かくて酸っぱい料理」に抵抗がある人は冷めたアドボから試してみるのも良いだろう。 なんだか取り留めないけど最後に提案をひとつ。おでんのアドボ化というのはどうだろう?今のおでんの具と味付けがベースなのだけど、だしに酢が入っているのだ。さすがに、さんざんアドボを薦めてきた私もこれは辛いような気がする。しかし、冒険なくして新しい分野は開拓できない。どなたか当たって砕けてみて欲しい。 ※1 ばばあ煮 ※2 作ってる ※3 意気地なし |
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